2023年10月2日月曜日

JR「塩釜線」廃線跡で巡る「塩釜レール入事件」【民法92条 慣習】

 商標弁理士のT.T.です。
 いつも知財系の事件ばかり追っており、今回も東北地方の知財事件の地を巡っていたのですが、途中、日本酒「浦霞」で有名な宮城県塩釜市を通るということで、せっかくだから民法の超有名判例「塩釜レール入事件」の地を巡るべく、途中下車することにしました。 

 「塩釜レール入事件」(大正10()2号)とは、民法92条の「慣習」に関する判例です。

民法92
 法令中の公の秩序に関しない規定と異なる慣習がある場合において、法律行為の当事者がその慣習による意思を有しているものと認められるときは、その慣習に従う。

 塩釜在住の「丹野六右衛門(原告)」氏が、新潟市の「合名会社横山本店(被告)」から肥料用大豆粕を購入する売買契約を結び、約款では430日に「塩釜レール入」で引渡すとしました。「塩釜レール入」とは、荷物が塩釜駅に到着した後に代金を請求できるという「商慣習」です。 

 しかし、引渡し期日になっても大豆粕が届かなかったため、「丹野六右衛門」氏は「合名会社横山本店」に対し、622日に催告をしたうえで、契約を解除し、債務不履行による損害賠償を請求しました。 

 「合名会社横山本店」は、「丹野六右衛門」氏が代金を支払っていないから、大豆粕を送付する義務は負わないという同時履行の抗弁権(民法533条)の主張をしました。
 しかし、大審院は、「塩釜レール入」が「商慣習」であると認定し、民法92条の適用により、同時履行の抗弁権は認められませんでした。 

 また、「合名会社横山本店」は、仮に「塩釜レール入」の慣習があったとしても、民法92条の「その慣習による意思」があったかは、「丹野六右衛門」氏が立証すべきであり、原判決は証拠に基づかず「その慣習による意思」を認定したため、立証責任の原則に反すると主張しました。
 しかし、大審院は、意思解釈の材料となる事実上の慣習が存在する場合、当事者がその慣習を知っていて、特に反対の意思を表示していないときは、その慣習による意思があると推定するのが相当であるとして、その主張を退けました。 

 以上のことから、「合名会社横山本店」の債務不履行による「丹野六右衛門」氏の損害賠償請求が認定されました。

 「塩釜レール入事件」の舞台となった「塩釜駅」は、確かに、JR東北本線に実在する駅名ですが、これは1959年に新設された駅であり、事件当時、大正時代の「塩釜駅」は別の場所にありました(以下、古い方を「()塩釜駅」という。)。「()塩釜駅」は、塩釜駅から北東へ約1.4km、現在のJR仙石線「本塩釜駅」辺りにあり、事件当時は、東北本線の支線「塩釜線」の終着駅でした。

(写真:現在の東北本線・塩釜駅)

(画像:東北本線・塩釜線・仙石線の路線図)

※仙石線は「塩釜レール入事件」後の1925年に開通。
※塩釜線は、仙石線と合流後、本塩釜駅辺りまで並走。

 塩釜線」は、元々、東北本線の一部として1887年に開通し、当初の「()塩釜駅」は東北本線の終着駅でした。1890年には、東北本線が北へ延伸されることにより、岩切駅から()塩釜駅までが、東北本線の支線となり、後に「塩釜線」と呼ばれるようになりましたが、その後、1997年に「塩釜線」は廃線となってしまいました。 

 そうすると、「塩釜レール入事件」当時の大豆粕輸送ルートは、新潟駅→(信越本線)→新津駅→(磐越西線)→郡山駅→(東北本線)→岩切駅→(塩釜線)→()塩釜駅、と推定されますが、このうち、廃線となった塩釜線をこの足で辿ることで、現代における「塩釜レール入」を再現してみることとしましょう。

 

 塩釜線は、岩切駅が始点でしたが、国府多賀城駅と塩釜駅との間までは東北本線と並走していました。国府多賀城駅から塩釜駅へ至るとき、東北本線は左へカーブしますが、これに対し塩釜線は右へ分岐します。
(写真:左2線が東北本線、右1線が塩釜線跡(国府多賀城駅近くの踏切))

(写真:下り方面(塩釜駅方面)、左側からカーブする東北本線)

 東北本線を右に分岐した先には、いかにも廃線跡な雰囲気を醸し出す、長細い空き地が広がっており、一部が歩道として開放されています。空き地道中にてレンガ橋勾配標を望みつつも、途中で住宅街を突っ切り、さらに進んで仙石線へと合流すると、塩釜線と仙石線の並走区間になり、一部が遊歩道として整備されています。このまま仙石線と並走し続けると、仙石線「本塩釜駅」こと塩釜線「()塩釜駅」に到着しました。

(写真:廃線跡を匂わせる長細い空き地)

(写真:塩釜線レンガ橋跡)

(写真:勾配標(写真左))

(写真:仙石線(右)と並走する塩釜線跡の遊歩道)

(写真:(旧)塩釜駅があった本塩釜駅

 「本塩釜駅」高架下は、駐車場となっており、その脇に塩釜線「()塩釜駅」のプラットフォーム遺構が残っています。そうすると、「塩釜レール入」とは、このプラットフォームに汽車に到着したら、代金が請求できる契約だったのでしょうか?

(写真:本塩釜駅高架下の(旧)塩釜駅プラットフォーム跡)

 いいえ、どうやらこれは旅客用ホームだったようで、貨物のやり取りがあった()塩釜駅の貨物ターミナルは、旅客用ホームから更に奥へ進んで右に曲がった「イオンタウン塩釜辺りにあったようです。確かに、妙に廊下が長いイオンで、廃線跡を匂わせます。

(写真:(旧)塩釜駅の貨物ターミナルがあったイオンタウン塩釜

 このように肥料用の大豆粕が運ばれる予定だった塩釜線「()塩釜駅」は、跡形ぐらいしか残っていませんでしたが、原告・丹野六右衛門氏の店舗は、国の登録有形文化財として未だ現存しています(築1914年~)。それが、本塩釜駅(()塩釜駅)から西へ約300m進んだ「丹六園」になります。

(写真:丹六園)

(なお、被告「合名会社横山本店」は、新潟市中央区上大川前通11番町辺りにあったらしいが、現地へ行ったところ、痕跡は現在なかった。) 

 「丹六園」は、1720年に丹野六右衛門(初代)が創業した海産物卸商に始まる老舗で、歴代当主が代々「丹野六右衛門」を名乗っています。「塩釜レール入事件」の丹野六右衛門氏は9代目だったようです(現在は12代目?)。 

 肥料の取り扱いについては、明治時代以降に開始したとのことで、実際、「丹六園」の旧屋号が「丹六肥料問屋」だったことから、「塩釜レール入事件」で9代目・丹野六右衛門氏が被告から購入しようとした肥料用の大豆粕は、他者へ卸売するためものだということが分かります。つまり、「塩釜レール入事件」の損害賠償請求とは、原告自身が肥料を使えなくて困ったから請求するのではなく、商流が滞ったことによる損害だということが良くわかります。 

 現在、「丹六園」では肥料は取り扱っていないものの、和菓子と陶器を販売しています。特に、「志ほが満」という落雁風の銘菓は、仙台藩にも献上された記録が残るほどです。

(写真:銘菓「志ほが満」)

 ちなみに、丹野六右衛門(10代目)の妻の兄は、民訴法で高名な東北大のS博士(故人)で、その息子も慶應大法学部の名誉教授とのことですが、丹野家親戚の集まりでも「塩釜レール入事件」が話題なったことは一度もなかったようで、店内で対応いただいた丹野家の方も「塩釜レール入事件」は全く知らなかったとのことです。

 

 さて、話を貨物ターミナル()塩釜駅こと「イオンタウン塩釜」に戻しまして、もし現代に「塩釜レール入」を再現するならば、単に「イオンタウン塩釜」に入店するということになるのでしょうが、それだけだと何か味気ないです。やはり、「イオンタウン塩釜」で大豆粕を購入してこそ、現代の「塩釜レール入」っぽいと思います。 

 ところが、大豆粕は、その名の通り、大豆から油を搾ったカスなので、一見食べられそうですが、現代の主な用途は家畜飼料なので、人間用小売業のイオンでは、そう簡単に大豆粕は購入できなさそうな感じです。
 そうすると、イオンで購入できる範囲で、現代の「塩釜レール入」を再現するならば、「イオンタウン塩釜」で「トップバリュ素焼き大豆」を購入、という結論になりました。

(T.T.)






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